AIはエイリアンか? B338『AIエージェント 人類と協働する機械』(広木 大地)

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広木 大地 (著)
リックテレコム(2025/11/13)

前書に引き続き広木大地氏の『AIエージェント 人類と協働する機械』を読んだ。

もともとは下記のツイートを見て本書に興味を持ち、そこで前作の存在を知ったというのが流れ。

AIの活用が一般化する中、AIに対して自分なりの基準もしくは言葉を持たなくてはならないのでは、と感じていたところに、上のツイートが流れてきた。批判的な視点も含んだ一つのヒントが得られるのでは、という気がしたのだ。

AIはエイリアンか?

「AIがエージェントではなく、人間がAIのエージェントになる」というような言葉も見かける。これは、単なる脊髄反射的なものではない、考えておくべきことが含まれている言葉だと捉えているのだけど、それをどう自分の言葉にできるか。

昔、自動車エイリアン説というのを考えたことがある。

同じように、もし自動車が実はエイリアンで、人間が車を利用しているように見えて実は車が人間を利用している、と思って景色を見ると妙にしっくり来たのです。 車が人間を操り、道路と住居(駐車場)を作らせ、食料(燃料)を補給させ、おまけにメンテナンスや世代交代までも任せる。 そのために人間は必死で働き、自分たちの居場所をあけわたし、全てにおいて車を優先させます。 道路を拡張し駐車場を最適化するために区画整理を実行し、高速道路を作り、また、(車にとっての)集会場を各地に設置するために(人間用の)商業の場所を一箇所に集約して車のために尽くします。 人間には自分たちが支配者だと思わせるために、ちょっとしたスペースと時間、あと運転という作業を残しておいているのも計算ずくのことでしょう。(自動車エイリアン説。 – オノケンノート)

これと同じことがAIにも言える。

今後の電力増加分の半分以上は、AIが原因になると見られているようですが、今後AIに餌(データとエネルギー)を与えつつ、自分たちの居場所を開け渡しながらAIの繁栄をせっせと支えるようになるのは間違いない。

共存の形はとりつつも、こんなに明け渡さなくても良かったのに、と感じる人が増えるのか、そう感じる感覚そのものから失われるのかは分からないけれども、もはや必然としてAIを繁栄させる方向に進んでいくのだろう。

本書について

軽く本書について書いておくと、本書は全文AIを使って書かれたもののようだ。

その成果物としては、「冗長」でメリハリがない読むのが辛い本だった、というのが正直なところ。「ここ、前にも書いてるから初めて書くような書き方は修正して」とか「ここ、思い切って削除しましょう」とか編集者は介入しなかったのだろうか、と思う場面が多々あった。

全体としては、面白い部分もたくさんあったのだけど、AIに相談しているうちに、伝えたい情報がどんどん膨らんでいって、そのまま載せちゃった感が強く、メリハリがなく、かえって全体のストーリーが見えないと感じた。

多くの知識や背景を押さえるという点では有益だと思うけれども、半分くらいのボリュームにして欲しかったというのが個人的な感想。(見出しだけ読んで読み飛ばした部分も多数)

自分がブログを書くときもAIを使って書いたものは、結局、自分の書いたものとしての(自分にとっての)価値はなかった、と感じることが多かったし、結局何が言いたいか分からない、ただの情報になってしまって最初から書き直すということも多かった。

今のところは、自分がなぜ書くのかを考えると、ブログに関してはAIは調べものくらいにしておこう、という思いが強くなった本だった。

太田とオノケン

組織の一員の太田としては、AIの活用は進めないといけない。

おそらく競争力の多くの部分はAIをどう位置付けて活用しつつ、人間の役割を明確にできるか、というところに移行していくだろうから、活用しない、というスタイルはよほど尖ったコンセプトがなければ難しくなっていくだろう。(これが幻想の可能性もある)

絶対的に必要、というよりは相対的な競争力を考えるとそうでないと生き残れない。まさにAIの思う壺だが、段階を追いつつ何かしらそちらに舵を切るしかない。

一方、オノケンとしてはそうではない。

近代化・工業化の過程で人間の中から多くのスキルや思考の型が失われたけれども、それはやはり、変化というよりは喪失だった、というのが今のところの結論のようなものだ。

失わずに共存する、という道もあったというのは可能性としては考えることができるけれども、多くの人間はそうしないし、率先してそうではない道を選択していく、というのが人間の性である。その社会の原理ではそれが合理的に見えるし、その選択が社会の原理を強化する。

開発関連の勉強を始めたばかりだけど、たとえばプログラミングという技術の中にも多数の知恵、技術そのものの持つ芳醇さのようなものが折りたたまれている。
最終的な成果が多くのプロセスをスキップして取得できることは、便利であることは間違いない。けれども、そのプロセスの中でしか醸成しない芳醇な知恵の感覚は、会得する機会が消失することでやがて失われ、せいぜい趣味の領域に限定されるだろう。

これは、近代化・工業化の過程でスキルが失われていくのと同じ図式だ。
合理的かどうかの話をしているのではない。人間にとっての芳醇さを持つ領域が失われていくことに人間が果たして耐えられるのか?何のための合理性か?そこに面白さの手応えはどれくらい残るのか、という個人的な関心の話で、面白くなければ嫌だな、という単純な話でもある。

下のような著者のXの記事を見ると、そのあたりへの関心も深いように思うので、こっちをもっと掘り下げてもらいたかったな。という気がします。

太田とオノケン。この辺の分裂がしばらく続きそうだけど、それはそれで何か得られるだろうと、どっちもしっかりやるしかないかな。

※太田としては本書はとても勉強になったし本質をきちんと理解しないといけない。また、爆速で変化するこの領域で鮮度を保ったまま出版するには、今後このスタイルが増えていくのかもしれない。

本書メモ

以下AIを使った忘備録的なメモ。

— 後でやる —





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