しばらく事務所を閉鎖することにした
しばらく事務所を閉鎖することにした。
それで、15年ぶりにタイトルをオノケンノートに戻した。
理由はいろいろとあるけれども、3月から参加し始めた開発の仕事の責任が大きくなり事務所の業務に時間を割く余裕がほとんどなくなったことが一番大きい。
仕事に十分な時間を割くことが出来ずに責任を果たせないかもしれないというプレッシャーとストレスは耐え難い。
これで、しばらくは割と好きだった設計の仕事とも、大嫌いだった申請関係や公共工事の積算なんかとの仕事ともおさらばだ。
そう思うと涙が出そうになった。
ちょうど30年前、建築を本気で志そうと決心してから、プライベートな時間やお金のほとんどを建築に注いできた。周りがそこそこいいところに就職してそれなりの生活を謳歌しているときに、芸人の卵のような極貧生活を続けていても、目指すものがあったから特段苦ではなかった。
何をするにも、どうすればより良い建築を提供できるのか、が常に頭の中にあった。
それは職業人としては(特の人の営み全般を扱う建築をやっている人にとっては)普通のことだったと思うし、歩みは遅くとも続けていればいつかは実を結ぶはずだと信じて疑わなかった。
それがどの程度実を結んだのかは分からないけれども、未だ途上であることは間違いない。その歩みを止めることには大きな葛藤があるし、これまでの自分の人生はなんのために存在したのだろうと考えると何が正解か分からなくなる。
とはいえ、完全に歩みを止めるつもりはない。
思い返せば反省点がいくつもある。
ひとつは、設計者として作品性に固執せずに、バランスを重視してしまったことだろう。
これは言い訳にすぎないけれども、特に住宅などでは、作品性よりもクライアントのイメージを膨らませたものを予算の中で実現して提供することに重きを置いていた。
たとえ予算が厳しくても、なんとか工夫して、クライアントが建ててよかったと思える空間を提供できればそれで良い、と思っていた。
いや、もっと徹底的に作品性や空間性を追求したものをつくりたいという欲求は常に強く持っていた。けれども、それがなかなか実現できなかったというのが本当だ。
けれども、それを追求するのは今ではない。この予算でクライアントにベストのものを提案するとすれば作品性を第一に優先すべきではない。そんな風に考えているうちにそれが状態化して何か言い訳のように根付いてしまった。
そうすると、予算的に厳しいクライアントがほとんどを占めることになり「何とかしましょう」というのが合言葉になる。一方、コストをかけても作品性を求めるようなクライアントは遠のいていく。
といっても、自分の設計してきた建物が悪いものだとは思っていない。模型や3Dモデルでの検討を繰り返して調整を行った空間は生活の場としてはしっくりくるものになったと思う。設計した家を久しぶりに訪れた時、そこに生活が馴染んでいるのをみると、本当にいい家になったなと毎回感慨深くなる。
しかし、コロナ禍を経て建設費が高騰すると「何とかしましょう」といっていたものに対して「何とかしましょう」と言えなくなる。空間性のためならコストを欠けても良い、という客層を掴んできたわでもない。さらに、ビジュアルを中心としたSNSが主要な接点になっていく中、作品性を追求していないしっくりとくる生活の場が徐々に競争力を失っていくことを肌に感じていた。
作品性を徹底的に追求した建築の実現はなかなか出来なかったけれども、どんな建築なら自分は良い建築だと胸を張れるのか。その追求はずっと続けてきた。
というより、それを追求することのみが建築を続ける理由だったと言える。
学生の頃に建築に幻滅してこんなものはつくりたくない、と思ったあと建築を志すことを決めてから、胸を張れる建築を見つけ出すことが自分の人生の大きな目標になった。
それだけはずっと続けてきたと言える。
自分の競争力が徐々に失われていることを肌で感じながらも、胸を張れる建築のイメージはずっと育ち続けていた。それが逆に作品性への固執を怯ませてきたというのもきっとある。イメージは作品性を必要としないものへと育ちながら、そこに作品性が加わることで大きく花開くのでは、という期待も同時に抱いていてもやもやとしたものを抱え続けてきた。
そんな中、ふと「環境」という言葉に向き合おうと考えた。
それまでこの言葉には偽善性を感じていてあまり好きな言葉ではなかった。でも、世に溢れる環境という言葉に感じる偽善性は、環境という言葉の表面に張り付いているだけで、その中心には何か本質的なものが隠れているのではないか。そんな予感が急に湧いてきた。
一方で、生活の場を変えてみない限りその本質には決して触れられないのではないか。そんな予感も同時にあった。
それで二拠点生活を始めてみたのだが、そこから3年間ほど、自分なりに学習と実践の両面からいろいろと試しつつ追求してみた。
このブログにもインセクトにもいろいろ書いてきたので詳細は省くが、そこで見えてきたのは、自分が探し求めてきた建築の姿だった。
それまでずっと探し求めてきて、手応えを感じつつも、何かが足りていないと感じていた、その何か、自分が胸を張れるような建築の最後のパーツがここにあった。そのイメージをやっと掴むことが出来た。
そう思えた途端、少し緊張の糸が切れてしまった。
自分が胸を張れる建築とは一体誰に対してか。それはもちろん、建築に幻滅した若き日の自分に対してである。それを見つけた今、過去の自分に対する責任はようやく果たせた気がする。
あとは、現在の自分が納得するものをつくるだけだ。
しかしどうやって?
抽象的なイメージは頭の中にある。この感覚をどうやって人に伝えればいいのだろう。それも、人に自分でつくりたいと思ってもらうにはどうしたらいいだろう。
イメージを掴みかけた頃に、インセクトのストーリー案をつくってたこ犯さんに見せに行ったことがある。案の定、「うーん。そこいきますかー」という感じだった。まーそうだろう。僕もそう思うけれどもたどり着いたものがそこなので仕方がない。
このイメージが実現し、成長を続けて確固たる作品になった時には、多くの人が共感してくれると思うし、その魅力を感じ取ってくれるに違いない。主流にはならなくとも仕事にもつながるだろう。しかし、まず最初に誰がそれを実現したいと思ってくれるだろうか。
焦らず、じっくりとチャンスを伺う。チャンスはすぐには来ないかもしれないけれども、そのイメージを少しづつ育てながら、その時が来るまで今を生き抜いてやる。
そんな中で生き抜く術の一つとして参加し始めたのが今のソフトウエア開発の仕事だった。
その仕事での役割や責任が大きくなりすぎて、他のことがまったく手につかなくなってしまった。あくまで、生き抜くための副業のつもりだったのが、予想外の展開に戸惑ってもいる。あたふたしている間にもいくつかのチャンスも通り過ぎた。
だけど、今は焦るタイミングではないし、過去の自分に対する答えを見つけて緊張の糸が切れかけてもいる。開発の仕事は建築と違った面白さがあるし、やりがいもある。何よりも今さら投げ出すことができないくらい責任が重くなってしまった。
建築に向かって30年。一度気持ちを切り替えても良いかもしれない、ということで開発の仕事に専念することにしたというのが事の経緯。
なので、建築、今あるイメージを形にすることを諦めたわけではない。かといって開発を中半端にやる気もないので、今の仕事が終わったらしばらくは事務所を閉鎖することにしたい。
もしかしたら、業としての建築の設計を一旦離れることで今のイメージをより育てられるかもしれない。そんな期待も抱いています。
(ドメインを変えてブログは続けていくつもり)
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